何かと反省の多い日々を送っているが、このところは特に反省と後悔にまみれた自分がいた。
今年の日記はこれまで毎日つけていたのだけと、反省と後悔にまみれたこの頃は白紙が続いている。その日を振り返るのも、何か文章を書くのも、そして、おそらく何よりも、自分と向き合うのが嫌だったのである。

昨日の夕方のこと、バスを待っていると、ふとキンクスの「Something better begining」が頭の中で鳴った。そしてこの「何かいいことの始まり」というフレーズが心に響いた

The band had started to play
I held you hand and I sighed
Is this the start of another heart breaker
Or something better beginning
Something better beginning
Something better beginning [by Ray Davies]

バンドはもう演奏を始めていた
僕は君の手を握り、そしてため息をついた
これはまた失恋への始まりなのか
あるいは、何かもっと素敵なことが始まるのかな (私訳)


僕の頭の中で歌っているレイ・デイヴィスが僕の背中を押した。

というわけで、このブログもタイトルを一新。日々の中に“something better”を探していこう。

「暗い心を持つものは暗い夢しか見ない。もっと暗い心は夢さえも見ない」(『風の歌を聴け』より)
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「生は死の対極にあるのではなく、その一部として存在する」(だったかな)

村上春樹『ノルウェイの森』の主人公ワタナベ君が人生に対する1つのテーゼとして掲げた一文である。この物語の中でワタナベ君が読んでいた小説がトーマス・マンの『魔の山』。この『魔の山』を久しぶりに読み返していたら次のような文章があった。

主人公ハンス・カストルプの人生の指南役を自任する、少々おせっかいな人文主義者セテブリーニが主人公に語る。
「エンジニア、どうかお聞きください。どうか心にとめておいていただきたいのですが、死に対して健康で高尚で、そのうえ−−これはとくに申し添えたいことですが−−宗教的でもある唯一の見方とは、死を生の一部分、その付属物、その神聖な条件と考えたり感じたりすることなのです。−−逆に、死を精神的になんらかの形で生から切り離したり、生に対立させ、忌わしくも死と生を対立させるというようなことがあってはならないのです」

ワタナベ君のガールフレンドの直子が療養する「阿美寮」が、ハンス・カストルプやセテブリーニがやはり療養する、高地サナトリウムを彷佛させることは言うまでもないが、この生と死に対する見方についてもつながっているとは気づかなかった。『魔の山』を先に読んだのはもう10数年も前の学生時代で、このときはこの長編をとにかく読み切ること、読書リストに加えることだけが目的であるかのようにそこれこそ一心不乱に読んだものだが、このように今は再読ならではの妙味を味わいながら読んでいる。ときに数週間も中断することがあるぐらいゆっくりと、“予定を立てずに”。
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# by suiminsha | 2007-10-27 01:21
「僕がいちばん記憶に残っているのは釜石に行ったときだね。体育館みたいなところでやったら、客が全部学生服を着てるんだ。それでステージが終わって翌日、僕らが東京へ帰るために列車に乗ったら、昨日の学生服の子たちが乗ってくるんだ。集団就職なのかな。そのころ、そういうのがあるのか分からないけど、学生時代最後に見るアグネス・チャン。そして東京へ行く彼らと一緒に列車に乗っているバック・バンドの僕たち。すごい印象として残っている。」(『火の玉ボーイとコモンマン』より)

“日本最古のバンド”ムーンライダーズのリーダー、鈴木慶一氏の回想の一節である、1975年。結成まもないムーンライダーズはアグネス・チャンのバックバンドとして彼女のツアーに参加、その一環として、僕の住む街・釜石にもやって来ていたのである。“体育館みたいなところ”というのは、おそらく小川体育館のことだろう。70年代の終わり頃まではこの体育館でもずいぶんとコンサートが行われていたものである。

1975年といえば、釜石の駅前にはまだ製鉄所の煙突が立ち並び、白い煙をもくもくと吐き出していた頃だ。駅のプラットホームからも車窓からも見えていたはず。このいかにも工業都市を象徴する光景と東京へ向かう列車という装置に、慶一氏は自分の生まれ育った東京・羽田と旅の途中の自分たちを重ね合わせ、上のような少々感傷的ともいえる印象を抱かせたのであろうと、これも勝手に僕は想像するのである。

羽田というと空港という連想が働くが、彼の原風景にあるのは中小の工場が軒を連ねていた労働者の街だったそうである。「土の道に、たくさんの工場。これが僕が小さかった頃、一九五〇年代の羽田の風景だよ」「みんな同じ服を着て汗みどろになって機械をうごかしているんだよ。『輝ける未来へ、労働者諸君、漸進しよう』という文字が浮びあがってくるような光景だった」(前掲書)

ところで、慶一氏が言うところの、列車に乗り込んできた“学生服の子たち”というのは、私見では、集団就職ではなく、わが母校、釜石南高校に汽車で通う鵜住居や大槌の生徒たちではなかったか、と思っているのであるが、たとえそうだとしても、もちろんそんなことはどうでもいい。彼の心に釜石の印象が深く刻み込まれていたことが、素直にうれしい、のである。
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# by suiminsha | 2007-03-25 17:12 | 釜石