カテゴリ:読書( 4 )

ハルキさんの『1Q84』が何やらものすごいいきおいで売れまくっているとか。地方の小書店が盲点ではと思いきや、最寄りの書店にもありませんでした。

<爆発的なヒットを続ける村上春樹さんの新作長編小説『1Q84(イチ・キュウ・ハチ・ヨン)』(新潮社、2巻、各税別1800円)の1巻が、品切れとなる書店が続出している。

 オンライン書店のアマゾン・ジャパンで、2巻計2万部が予約期間中に売り切れるなど、発売前から人気が沸騰していた同書。発売元の新潮社は、初版で1巻を20万部、2巻を18万部印刷していたが、発売前の5月22日に各5万部を増刷した。発売後も反響が大きく、同社は4日現在、1巻を7刷51万部、2巻を同45万部まで増刷したが、市場に出ているのは2刷分まで。印刷が人気に追いつかず、書店で品薄になっている。

 新潮社は今回、村上さんと話し合い、書名と発売日、価格以外の情報を発売まで伏せ、事前に読む社員を限定して情報管理を徹底していた。出版ニュース社の清田義昭代表取締役は「ハングリー・マーケットの典型。タイトルの意味も、内容も分からず、読者の飢餓感が高まった」と分析している。

 一方、小説に登場するジョージ・セル指揮、ヤナーチェック作曲の「シンフォニエッタ」を収録するCDについて、発売元のソニー・ミュージックジャパンインターナショナルは数千枚の増刷を行った。

(2009年6月4日23時11分 読売新聞)>

なるほど“読者の飢餓感”とはすごい表現だが、じつに言い当てているなあ。
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by suiminsha | 2009-06-05 00:29 | 読書
熱烈にとは言い難いが、僕は小学校の頃からプロレスが好きである。そのプロレスに、“シナリオ”があると知ったのはわずか数年前のことだったと思う。まあ、“めでたい”プロレスファンというわけだ。

1977年の全日「世界オープンタッグ選手権」での、ザ・ファンクスとシーク&ブッチャーの“大流血戦”以来、ファンクスのファンとなった僕だが、そんな選手やグループどうしの“抗争”、さらには“流血”も演出だよ、と教えられたときは、さすがに「マジかい?」と声を上げ、にわかには認めたくない気持ちであった。


プロレスの世界では、対戦カードを決めるだけでなく、このような試合のシナリオをつくることを「マッチメイク」といい、これにあたる人を「マッチメーカー」という(のだそうだ)。この言葉も最近、知った。そんな中、そのまんまのタイトルにひかれて図書館から借りてきたのが、第49回江戸川乱歩賞受賞作でもある『マッチメイク』(不知火京介)。

ストーリーとしては、あるプロレス団体の会長兼エースの選手が、試合途中に死亡し、他殺を疑った主人公の新人レスラー・山田がその謎の解明に挑んでいくというものである。そして、事件を追っていく中で、山田は“真剣勝負”ではないショーとしてのプロレスの実体も知っていくのだが、僕としては犯人探しよりも、こっちのプロレスにまつわるサイドストーリーの方にがぜん興味がいった。(ところで、山田の唯一の同期レスラー、「本庄」のキャラ立てはおもしろい。)

「ジュース」(レフリーあるいは選手自らがカッターで額などを切ること)、「アングル」(試合のシナリオを盛り上げるための“序章”。“抗争”をめぐる一連のパフォーマンスなど)、「抜き打ちアングル」(「自分で勝手にシナリオを書き変えちゃう」こと)などの隠語の意味が、犯人探しの途中で本庄から主人公に教えられる。“めでたい”僕にはこれだけでも十分刺激的だが、さらに本庄の口から語られた「門番」というものに僕は非情な興味を覚えた。

この小説では、丹下というレスラーがその「門番」の役目を与えられている。道場破りに対しては彼が相手をし、圧倒的な強さで打ち負かす。しかしながら、「いつだれとやっても負けないために」レスリング、柔道、ボクシング、空手、合気道、剣道、ムエタイなどあらゆる格闘技をマスターしていった丹下だったが、「同時に丹下さんには万年前座レスラーの座が与えられた。丹下さんの真の実力は完全な社外秘だった」のである。

門番――誰よりも過酷なトレーニングに耐え抜き、誰にも負けない強さを身につけたにも関わらず、その実力を世間にはアピールできない――プロレスのまがまがしい部分を見せられたような気がした。

「門番」のことも聞いた山田は、その門番にならないかという話を、会社の経理を手伝い、会社の内情にも詳しい様子の本庄に持ちかけられる。「丹下さんが(山田くんの)ガッツを認めたわけ」だという。山田はちょっと逡巡するが、自分が辞退した場合のことを尋ねると、本庄は「ああ、そんな心配はしなくてもいいよ。ぼくがそれもやることになるから」としゃあしゃあと言ってのける。「それじゃ、俺はおまえに一生勝てないじゃないか」と山田は門番を引き受ける。
「いや俺がやる」
言ってしまった。だがほんとうにこれでよいのか。両親や妹の顔が浮かぶ。俺が一生冴えないレスラーで終わったとしたら。みんなどう思うだろう。

丹下との“前座”に関する会話の中では、こんなことも考える。
なんだか罵倒され野次り倒される自分の姿が目に浮かんだ。

「なんて辛い役回りなんだ」と誰だって思うだろう。もし現実に、こうした世間的には陽の目を見ないことを覚悟し、観客のヤジも冷たい視線も大切な人たちの落胆も、すべてを受け入れてリングに上がっている“門番”レスラーがいるのだとしたら、畏敬すべき存在という他に言葉が見つからない(「丹下」のモデルは藤原喜明ということだが)。

個人的には、丹下や本庄の生い立ち、半生についてもっと知りたいとも思った。物語はリングの上だけにあるのではない。選手のバックグラウンドをはじめ、リング外の物語(ショーとしての演出の実体も含めて)に触れれば、プロレスはさらに味わい深いものになるのかもしれない、そんなふうにこの小説は思わせてくれた。

マッチメイク (講談社文庫)

不知火 京介 / 講談社


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by suiminsha | 2009-05-31 22:10 | 読書
地元の図書館の新刊コーナーで見つけた一冊。『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』。フィッツジェラルドの文字に反応し、そのまま借りてきた。

老人の姿で生まれ、年をとるにしたがって、体(つまり見た目)は若返っていく男の物語、といえばご存知だろう。ブラッド・ピット主演の映画が昨年公開されましたね。僕はその映画のCMで初めてこの物語のことを知ったのだけど、原作がスコット・フィッツジェラルドだったとはうかつにも知りませんでした。

僕は映画の方を見ておらず、映画に関するコメントは昨年テレビで見たCM等と公式サイトによるものなので、的外れかもしれません。あしからず。

上述のように、年とともに体は若くなっていく男と、彼が恋した女の物語と言ってしまえば身も蓋もないけれど、小説と映画の印象はだいぶ違う。

映画の方は、予告編を見る限り、ベンジャミンとディジーの恋物語を中心にロマンティックに描かれ、中でも、2人の“若さ曲線”の(きっと切ないであろう)交差点がクライマックスになっているのではないかと思われるのですが。捨て子で、後に家を飛び出し、孤高に生きるベンジャミンは、気高い男のようにも見えます。一方の原作では、ベンジャミンの父・ロジャーと息子・ロスコーを含む家族の物語の色彩が濃く、父や息子の戸惑いもなかなか重要な読みどころ。運命的な出会いをして結婚するヒルデガードの役どころも映画のディジーほど艶っぽくないです。ベンジャミンはじめ、登場人物はみな苦悩する中でもどこかユーモラスな一面も。

ベンジャミンは生まれたときには既に言葉を話し、父が与えたおもちゃには見向きもせず、ブリタニカ百科事典などを読みふけっている。まるで頑固で年老いた(ロジャーの)父のようだ。ロジャーの方でもかたくなに、あくまで赤ん坊として育てようとする。

だが彼は明らかにガラガラには退屈したようで、一人きりのときには別の、もっと心地よい楽しみを見つけた。たとえばある日、バトン氏は前の週に自分が今までにないほどたくさん葉巻を吸っていたことに気づいた――何日かあと、この現象の理由がわかった。出し抜けに子供部屋に入ってみると、部屋が薄い青にかすんでいて、うしろめたそうな表情を浮かべたベンジャミンが黒いハバナ煙草を隠そうとしていたのだ。もちろんこんなとき、罰として父親はベンジャミンの尻をこっぴどく叩くべきだったが、どうもそんな気にはなれないことにバトン氏は気づいた。ただ「そんなことをしたら大きくなれないぞ」と息子に言うだけだった 訳:都甲幸治(以下同)


20才で社交界にデビューしたベンジャミンは、ヒルデガードに一目ぼれ。彼女も彼を50才の紳士と思いこんでこんなセリフを。(いかにもフィッツジェラルドの小説に出てくる女の子が話しそうな言葉だ)

「あなたぐらいの年の人が好き」ヒルデガードは言った。「若い男の子ってくだらないでしょ。大学でどれだけたくさんシャンパンを飲んだとか、賭トランプでどれだけすったとかばっかり。あなたぐらいの年の男性なら女性の扱い方もわかっているけど」


(おそらく)映画と違って、こちらのベンジャミンは年とともに老けていく妻に魅力を感じなくなるようになる。家業の金物の卸業を成功させ、また、このとき若い肉体を手に入れてた彼は、折から始まった米西戦争に大尉として自ら参加し、勲功まで立てる。

中佐で予備役となり、家に戻ったベンジャミンは、ますます老けた妻に失望する。一方でますます若さを手に入れていく彼は、家業を息子にゆずり、ゴルフ、ダンスに凝り、さらにはパーティで若い女の子たちと付き合った。そして50才の彼は20才の肉体とともにハーバードに入り、まもなくフットボールの名選手として活躍するが、4年生になる頃には他の選手と比べて、弱々しい身体になっていた。とうとうある日彼は2年生に新入生と間違われてしまう。おそらく小説における転換点はここか。

ハーバードを出て家に戻った彼は決して歓迎はされなかった。ヒルデガードはイタリアで暮らし、息子ロスコーも既に家庭を持っている。少年のような父親に対して、「『叔父さん』と呼んでください」と懇願する息子の気持ちもそれを言われるベンジャミンの気持も切ない。

その後、ベンジャミンは陰鬱な日々を過ごす。軍隊生活を懐かしむ彼に、ある日朗報が届く。米西戦争に従軍した彼を准将として任命するので出頭せよ、との通知である。大喜びの彼はさっそく軍服を用意しに仕立て屋に走るのだが――ここでのやりとりは僕がいちばん気に入ったところでもある。

軍服を作りたいので採寸してほしい、と甲高く震える声で言った。
「兵隊ごっこをしたいのかな、坊や」店員は何気なく訊ねた。
(略)一週間後に軍服ができた。正式な将官の徽章を手に入れるのにベンジャミンは苦労した。YWCAの徽章だって同じくらいかっこいいし、そっちのほうが遊ぶには面白いと業者が言い張ったのだ。


そして彼は将官の軍装で勇んで駐屯地に行くが、あとはもう子供扱いである。

彼は駐屯地の入口まで来ると、駅から乗ってきたタクシーに金を払い、歩哨に向き合った。「誰かに私の荷物を運ばせてくれ!」彼はきびきびと命じた。歩哨は咎めるように彼を見た。彼は言った。「将官の服を着てどこに行こうってんだい、坊や?」米西戦争の退役軍人であるベンジャミンは怒りの目を歩哨に向けた。だが残念ながら、声変わり中の震える声しか出なかった。


その後、階級では下位である騎兵大佐にたしなめられた憐れな父・ベンジャミンを、息子のロスコーが連れ戻しにやって来た。その姿は、いたずら好きの子どもを家に連れて帰る父親の姿だ。

急な旅に彼はイライラと不機嫌だった。軍服を脱がされて泣いている准将を彼は家に連れて帰った。


年相応という言葉があるが、ベンジャミンが“年相応”だったのはほんの一瞬だったんだろう。もちろんその一瞬が幸せな瞬間と一致するとは限らないが、いずれにせよ彼にとってまぶしく輝かしい一瞬とは、いつだったんだろう、と思う。軍隊での生活だったのか、ハーバードでの活躍の日々だったのか、あるいはヒルデガードと出会ったパーティの夜だったのか。そのどれもが、他人とは違う道を歩まねばならなかったために無念な結果を迎えたわけだけど。

非常に可哀そうであるけれど、この物語を読んでみて、僕にとってベンジャミンは愛すべき人である。自分を受け入れてくれない環境に対して懸命に自分をアピールし、ときに嬉々として無邪気な顔も見せる。

久しぶりにいい物語を読んだなという心持ち。各章ごとに描かれた野田あいさんによる、どこか人を食ったようなベンジャミンのイラストも好きです。悲しいけど、どこかおかしい読後感は、このイラストによるところも大きいかも。こんな物語が日本に紹介されず埋もれていたとは。やはり、フィッツジェラルドすごし、である。
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by suiminsha | 2009-04-28 02:28 | 読書
ワクワクするストーリーや美しい描写に引き込まれて時間を忘れてページを繰り続ける体験は、本を読むことの至福の一つに違いないけど、1ページ、いや1段落を読むのさえ難儀に感じる読書も多いものです。でも、次のような言葉を読むと、さらなる読書欲が湧いてきて、読まずに本棚の奥にひっそりしまわれていた本を無性に取り出してみたくなります。どちらも読書を登山に見立てています。

まだ見ぬところにある知的達成感や充実感みたいなものを味わいたいなと思う。これってけっこう大きなモチベーションの一つですよね。

こちらは、孤高な挑戦という感じ。力コブの入った“読む気”がふつふつと。

 新聞、雑誌、単行本、マンガ、楽譜集、どんなものでも全部が「読書する」なんですが、そこには優劣も貴賤も区別がないと思うべきなんですが、やっぱり読書の頂点は「全集読書」なんですよ。これは別格です。個人全集もあるし、シリーズ全集もありますね。
 まず、その威容に圧倒される。大半は頑丈な函入りですから、なかなか手にとる気にならない。飾ってあるだけで満足ですよ(笑)。しかし、眺めているだけではもったいない。それを齧るんですね。ロック・クライミングですよ。当然、すぐに振り落とされる。二合目と三合目かでね。それがまた、たまらない(笑)
『多読術』松岡正剛


読書は孤独な行為なんかじゃない。書き手のいない読書なんてありえないのだから。

 はじめて『敗戦後論』を読んだときの印象は、熟練の案内人に導かれて峻険な峰に登った感じに似ていた。
 自分がどこに向かっているのか、初心の登山家である私にはよくわからない。でも、案内人の顔を見ていると、「この人はわかっている」ということがわかる。その歩みについて行くと、彼はざくざくと勝手知ったるように山道を進んでゆく。ときどき私がちゃんとついてきているかどうか、立ち止まって振り返る。息切れしていると看て取ると、しばらく小休止する。少し休むと、また立ち上がって、黙って歩き出す。読者である私は案内人の背中だけを見つめて、その規則正しい足取りに自分の足取りを合わせることに集中する。そんなふうに何時間も歩き続けているうちに、いつのまにか藪の中の小径を抜け出して、思いがけないほど広々した眺望をもつ尾根に出ていたことに気づく……。
『敗戦後論』加藤典洋 内田樹によるあとがきから
 

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by suiminsha | 2009-04-27 02:51 | 読書