『銀座らどんな物語』(大下英治/講談社1992年)と里見甫

本書は、多くの文人や財界人に愛された銀座のクラブ「らどんな」のママ、瀬尾春(1919-1991)の一代記である。

昨年にこのブログで紹介した『阿片王』(佐野眞一)に次のようなくだりがあったので、満州、上海で活躍した主人公・里見甫に関する記述がこの昭和史の一面を彩るノンフィクションにもあるかなと思い、手にとった次第である。
もう一人、身元が判明した男に石丸清がいる。石丸は世田谷区用賀の高級住宅に住み、銀座のバー「らどんな」の名物ママ、瀬尾春のパトロン兼愛人だった。瀬尾は“上海お春”の異名ををとった上海時代、児玉機関の一員だった石丸と知り合い、戦後再会して男女の仲となった。(中略)「らどんな」でトラブルがあったとき、里見が出て行って揉め事を収めたこともあり、里見は酒も飲めないのに、「らどんな」にはよく行っていたという。(『阿片王』(佐野眞一/新潮文庫))

『阿片王』の著者・佐野眞一氏が里見甫の人となりを取材する中で入手したのが、里見氏の遺児の奨学基金の発起人名簿であり、岸信介、児玉誉士夫、笹川良一、佐藤栄作など大物も名を連ねる、この発起人たちの身元を1人1人洗っていくことが初期取材の大きなテーマの一つであった。引用文にほどなく見える“身元”というのはそういうことである。

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里見甫(1896-1965)

結論から言うと、『銀座らどんな物語』には里見甫の名前は出てこない。しかしながら、瀬尾春が最初の店を持つ際の資金の出所に関するエピソードは『阿片王』の視点から読めば興味あるものだった。

もともと石丸は、児玉機関の「やり手として有名な」機関員であり、昭和20年の終戦の後、瀬尾の日本への引き揚げをアレンジしたのが石丸であった。そのとき、瀬尾は石丸から「バターほどの大きさの木箱を渡され」、日本に持ち帰るよう依頼された。そして日本で再会し、共同生活が始まったのちのある日のこと、石丸は瀬尾がその木箱を無事に預かっていることを知ると、箱の中身がラジウムであることを明かす。そのラジウムを香港で売った代金の一部が開店資金となったのである。

少なくとも朝鮮戦争が始まる昭和25年以前の戦後間もない日本にあって、香港でラジウムをさばいて大金を得る。ていうか、ラジウムを手にできるということ自体、僕をはじめ一般の人には思いもよらないだろう。そんな終戦前の上海で暗躍した人物ならではと言っていいふるまいは、大阪万博の同時代に生まれた僕にはまるで昔の日活映画でも見ているような、いかがわしくも鮮やかに映るのである。戦後はひっそりと暮らしながらも有名人が集う「らどんな」に“よく顔を出した”里見甫、そして里見遺児奨学基金の発起人となった石丸清。2人の戦前・戦中の中国大陸での様子と、戦後も続いたであろうつながりから推察すれば、もしかしたら、このラジウムの取引には里見甫も絡んでいたのかもしれない。そんな想像をたくましくすれば、戦後史のまだまだ闇に埋もれた部分をもっと覗き込んでみたいという好奇心はますます強くなってくるのである。
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by suiminsha | 2009-06-14 17:21 | 昭和史